No.255 カルチャーショック

いつもの出版UD研究会への参加です。
しかし、こんなにカルチャーショックを受けたのは、初めてです。
今回は、「ろう児・ろう者にとっての読書」~ろう児をとりまく教育環境~と題して、あらゆる困難のなか、日本初の「日本手話で学ぶろう学校」を創られた玉田さとみさんのお話でした。
全国のろう学校で手話が禁止され、聞こえない音を聞き、聞こえない声を出させる「口話法」での授業が始まったのは、1933年のことです。さらには補聴器の活用を加えた「聴覚口話法」へと変化し、今日にいたっています。
戦争という時代背景のなか、「日本人たるや、日本語を話すべし」という風潮を受けてのことのようです。信じられませんが。
一方、世界のろう教育はというと、手話と書記言語(読み書き)という二つの異なる言語による、バイリンガル教育を行い、学習成果をあげてきました。
やがて、日本では、「手話で学んでいたら、もっと多くのことを知り、もっと勉強ができたはず。今の子どもたちに、同じ思いをさせたくない」と、青年ろう者が、立ち上がり、フリースクールを設立しました。
その後「手話での教育」を望む親たちが、一緒になって学校設立のための運動が始まりました。
ようやく、2008年に品川区内に私立のろう学校「明晴学園」が誕生したのです。
第1言語、つまり母語が「日本手話」、手話には書き言葉がないので、「書記日本語」を使うことになります。しかしこの日本語は、第2言語となるので、「書記日本語」を習得するには、かなりの努力が必要となるとのことです。
「手話」と呼ばれているものに2つあるということも、初めて知りました。
1つは、ろう者の言語である「日本手話」、日本語とは、語順も文法も違う独自の言語です。
もう1つは、「手指日本語(しゅしにほんご)」、日本語の語順に沿って手や指を動かすもの。これは、中途失聴者や難聴者には、有効だが、ろう者には、分かりにくいものだそうです。
聴者が「手話をしている気分」になる手話コーラスなどは、この「手指日本語」とのこと。
「手話」が聞こえない人のためにある言語だとすると、ろう児にとっては、大変迷惑な聴者の遊びというお話には、二の句がつげませんでした。
この玉田さんのお話を通して、改めて「母は強し」の感を深めました。学校設立の筆舌に尽くせぬご苦労を伺い、当音ボラネットの立ち上げの頃のことを、思いだしました。
到底足元にも及びませんが。
さて、この後は明晴学園理事長であり、ろう者演劇界の第一人者である演出家、役者といくつもの顔をお持ちの米内山明宏さんの出番です。
ろう社会のカリスマ的存在として、ろう者の声を発信し続けてきた方です。
「口話法の授業を受けさせられてきて、口話の恩恵は、なかった。卒業して、ろう者の学校を変えようと思った。ろう者には、無理ということを少しでもなくしたい」とおっしゃる。
日本が一番多いと言われ、3300はあるだろう手話サークルは、単語を手話に置き換えるだけ。趣味の会みたいなものと、厳しい指摘もありました。
全ての情報を耳から取り込まなくてはならない視覚障害者と、目から取り込まなくてはならないろう者・ろう児は、真逆の関係です。
しかしだからといって、私たち音訳ボランティアにとって、ろう者・ろう児の読書や教育環境を知ることは、決して無駄ではありません。
ここでも、理解の輪を広げていくことの大切さ。それぞれに関わっている人たちの「○○よがり」に、陥らないためにも、常に当事者のみなさんに教えていただくという謙虚さが大切。そして諦めない勇気が必要と教わりました。
最後に米内山さんが、「雪国」の冒頭部分を「日本手話」で語ってくれました。
流れるような美しい手話でした。

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